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舟形木棺 2―志賀

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つづき

そしてもうひとつ、この記事には古代史探偵・海人ウォッチャーとしては見逃せないポイントがある。それは出土した場所のことだ。

この舟形木棺が出土したのは名古屋市北区平出町だが、記事にある地図をみてもわかるように、この平出町の道を挟んですぐ東側が志賀公園になっている。そしてこの平手町を取り囲むようにして、東側の隣町が何と「志賀町」なのである。「志賀」。

以前もこのブログで書いたように思うのだが、志賀=志賀島(しかのしま/九州博多沖にある島=倭王の金印が出土した島)であり、この志賀島が実に海人である安曇族の本拠地なのである。舟形木棺の出土した場所が海人所縁の「志賀」。これは偶然ではないだろう。この地区は海人・安曇族の所縁の地であり、従ってこの舟形木棺の埋葬者は志賀=海人・安曇族に関係していたのではと思えるのである。

そういえば、昨年の**自転車部の初詣サイクルで一番最初に行った綿神社(ワタ=海の意味)もまたこの近くの元志賀町にある。この神社もまた海人に繋がる神社である。(下に由来を引用しておく)





この周辺に海人・安曇族が移り住んだのであろう。この地で出土した舟型木棺とこの地の地名である志賀町がそれを示しているのだ。それは、いつの頃か?

**恐らく古代・弥生時代から古墳時代には、このあたりまで海が進入しおり、これらの場所が海岸線になっていたのではないだろうか?この周辺は若干小高い丘になっているのでは?あるいは当時は島?つまり、舟で移動してきた安曇族がこの沿岸部にある陵、現在の志賀町に渡り住んだのだろう。このあたりの考察はyayoigaokaさんのカシミール3dによる縄文海進地図の作成を待つことにしよう。

舟形木棺=船葬→志賀町→志賀島(九州・博多沖)=安曇族の本拠地

これもまたもうひとつの海人・安曇族の陸上がりなのだ。しかし安曇族は信濃の国まで展開し移住している。安曇野。そろそろkinokojiさんとの昨年十月の安曇野ツーリングで考えたことを語らなくてはいけなくなってきた。

お楽しみは、これからだ!!では、では、また。この続きは明々々・・後日の心だ。

貼り付け元 http://www.geocities.jp/engisiki/owari/bun/ow100611-01.htmlより


綿神社(わたじんじゃ)
【延喜式神名帳】綿神社 尾張国 山田郡鎮座
   【現社名】綿神社
   【住所】名古屋市北区元志賀町 2-53-1
       北緯35度12分1秒,東経136度54分40秒
   【祭神】玉依比売命 神功皇后 応神天皇
       『大日本神砥志』『特選神名牒』綿津見神
       『神祇志料』志加綿津見神
       『神名帳考証』『尾張志』『尾張地名考』海童神
       『神名帳考証』『神社要録』和田首祖
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年代不詳
       天文21年平手政秀綿神社を再建
       明治5年5月郷社
       明治40年2月26日神饌幣帛料供進指定
   【関係氏族】安曇族
   【鎮座地】移転の記録はない
   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡社」と称していた
   【社殿】本殿鉄筋流造銅板葺
       拝殿・社務所
   【境内社】多賀社・津島社・稲荷社・白龍社・四十八祖社
        白山社・秋葉社・熊野社社
北陵中学校西。国道に面して鎮座している。
社名の「ワタ」は、綿津見神の神名によつたものであろう。
この地を「志賀」と称し、九州志賀の志加海神社を祀る安曇族が祀るという。
当社の鎭座地は平手政秀の居住地で政秀の崇敬が厚く、社殿の修造や所領の寄進を賜つたという。
江戸時代を通じて当社は、八幡宮・八幡祠・八幡社と称していた。
由緒
延喜式神名帳、国内神名帳、尾張名所図絵等に記載される古社である。鎮座地は織田信長公の忠臣平手政秀の居住地であり、両者からも厚い崇敬をうけた。旧郷社。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
綿神社
延喜式神名帳に「山田郡綿神社」とある。綿とは、本国帳に「従三位綿天神と見えたり。綿は海のかり字にて、海童神を祭る。」と記され、又祭神の一柱である玉依比売命が海神綿津見神の女であることから由来している。
この志賀の地に邸を構えた平手政秀は、荒廃した社殿を再興し、鏡と手彫りの狛犬を奉納して主君信長の奇行・粗暴の平癒を祈ったと伝えられている。又尾張徳川家も代々当社を崇敬することが厚かった。
名古屋市教育委員会
社頭掲示板
式内綿神社由緒
主祭神 玉依比売命(神武展のの御母)      応神天皇(八幡様)1.綿神社の創建は大変古く、文字の使用もなかった弥生前期□□弥生人が此の地に定住し稲作農耕文化を東海以東へ広めた基となった、其の中核は北九州「志賀」の安曇部族であろう。則ち故郷九州「志賀」には祖神、海神の裔「玉依比売命」を祀り「海神社」と称し、此の地も亦「志賀」と偲び名も同じく玉依比売命を祀って「海神社」と称した。
既に「延喜式」にも「尾張の山田郡綿神社は筑前志加の海神社と□□の社なり」と記され、本国帳にも「従三位綿天神(略)綿は海の仮字で昔は此のあたりまで入海にてさる神社のおわしますなり(略)とある。
文字の転化は縁起や因縁等時代により珍しい事ではない。
2.志賀村の領主平手政秀(織田家の家老信長の師傳役)常に信長の奇行を心痛せるが、天文21年綿神社を再建、「願主政秀」と刻名せる神鏡と自ら手彫りの狛犬一対を奉納した。
政秀の祈願は察するに余りあるも、祈願空しく翌年天文22年正月13日遂に諌死するに到った。爾後信長の態度一変、天下平定の基を開いたのも実に政秀の誠忠に依る。即ち政秀なくば郷土三英傑の出現も又疑問ではなかろうか。

by kouseramu | 2009-02-24 22:27 | 考古学


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