6月のお題 - 「薫風」
090531 定光寺にて 振甫の伊賀絡みについての調査が行き詰まりをみせた。その振甫を尾張名古屋の地に招いたのは徳川義直だった。こんな時は、少し脇道にそれてみることに。コースアウト、また迷走ですが・・・・。しかし、その尾張徳川家の祖、あの定光寺に眠る”徳川義直”について、興味が湧いてきたのも事実で、調べてみた。 徳川義直。1600年生まれ-1650年没 徳川家康の九男。母はお亀の方(のちの相応院)。1600年といえば関が原の戦いの年。まさに天下分け目の戦いの年に生まれたことになる。「本能寺の変」からは15年が経過している。 しかし家康の九番目の男子にして、よくぞここまで・・、徳川御三家のしかもトップである尾張藩主になれたものだ。義家は余程家康に可愛がられていたのだろうか。それとも、母であるお亀の方が家康の大のお気に入り、才色兼備の絶世の美女だったのだろうか。 そして生まれた場所が京都・伏見城とある。義家は京都・伏見の生まれ・・・。 振甫が稲沢~名古屋に来る前にいた場所が京都。何やら京の都を介しての繋がりが・・・。 ここで新展開が生まれた。キター!!なのである。 GOOGLEで「振甫」「京」などと入力してみると・・・。 「萬願寺」がヒットしたのだ。 黄檗宗萬福寺。隠元法師が建立したお寺。隠元法師と聞いてもピントこないかもしれないが、インゲン豆なら知ってることでしょう。隠元はこのインゲン豆を日本にもたらしたお坊さんなのだ。 どこからか。勿論明国からで、若くして明国から日本に渡来し、帰化した禅僧である。彼は1554年に京都・宇治の地に自身のホームである萬福寺を建立している。隠元もまた振甫と同時代の明国から渡来した帰化人だった。 尾張に移り住んだ振甫は陳元頻ともに、この萬福寺をたびたび訪れていたのだ。 前回紹介した尾張藩典医、張振甫や陳元頻も足蹴くこの寺に通った。ただし、彼らには別の目的もあったようだ。 これによれば、萬福寺は明国復活を希求する日本在住の明国からの亡命者・帰化人たちの拠点になっていたというのだ。また明国からの帰化人の不穏な動きを監視する意味で張振甫をよく知る円空は動いていたのではないか。という円空の幕府府隠密・スパイ説のおまけまで付いているのだが。これについてはいかがなものか。 名古屋へ来る前に振甫がいたとされる京の場所は、まさにこのお寺、黄檗宗萬福寺に匿れていたのではないか。明国帰化人のリンク。そう考えるほうが自然であろう。 振甫さんの京での所在、足取りが徐々に明らかになってきた。 しかし、ではどのうようにして京の地で振甫は徳川義直に見初められたのか。その接点はどこにあったのか? ここで、お亀の方 京 義直 で検索してみると・・・・。 お亀の方 また別の資料では、 清涼院 (尾張大納言徳川義直公生家) (2007年5月8日) 何と、お亀の方は京都生まれで、その墓は現在の京都・八幡市にある正法寺にあり、菩提寺となっている。 伏見城で生まれたとされる義直も実際は母の故郷である伏見で幼少を過ごしたのである。お亀の方の生家もまた京・伏見のお寺・正法寺。家康との出会いが、岩清水八幡宮(京都・八幡市)。これらの場所は京都といっても南になる伏見~八幡~宇治にかけてのエリアである。 このエリアについては以前このブログでも、現在の京都競馬場「淀」と古代の河内牧や隼人の存在、またこの下流にある楠葉に宮を設けた継体天皇と馬飼いの荒籠の話としてアップしたことがある。古代史にとっても実に怪しいエリアなのである。 そして、決定的なのはこの義直が幼少期を過ごし、暮らした「清涼院」が、その後に何故か黄檗山萬願寺に払い下げられ、清涼了寛の隠居所になっていた。 清涼庵(院)は家康が、愛妾お亀の方を住まわせたところです。お亀の方が慶長5年(1600)年男子を出産し、幼名を五郎太と言い、それがのちの尾張大納言義直です。清涼庵のある町内を五郎太町というのは義直の幼名から来ています。この庵は後八幡町の正法寺に払い下げられ「福寿庵」と言われたが、寛文2年(1662)に黄檗山万福寺の清涼了観の隠居所となり、清涼庵と改称されました。そして、安永7年(1778)に知恩院派の尼寺になり現在に至っています。 徳川―義直―お亀の方―清涼庵―黄檗山万福寺―隠元―振甫。 これらが京洛南・宇治伏見の地でリンクした。 義直=徳川と萬願寺=隠元と振甫がリングとなって繋がってくるのだ。 ひょっとすると、振甫を尾張の地に招聘するのを義直に勧めたのは、義直の母であるこのお亀の方なのかもしれない。お亀の方は、京・伏見の父親を通じ以前より隠元法師を知っていて、この隠元から振甫や陳元頻を紹介されたのではないだろうか。義直が尾張藩主に任命された時は十代という若さ故、そう考えると納得がいくのである。無論、あくまで考古学探偵の推測、推理。確たる証拠はないのだが。 「東男に京女」日本人の理想のカップルのことをいい、確かこれは中世の関東武士(源氏や足利氏)と(文化的に)洗練された京都の女性とのカップルをいったのだと思うのだが。 家康とお亀の方もまたしかり。しかも、生まれた子供が尾張の殿様になるという、オチまでついている。何やら歴史のアヤ、不思議な洛南での出合いを感じるのである。 つづく
by kouseramu
| 2009-06-24 21:28
| 考古学
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